「沈黙」(遠藤周作)①

弱者に寄り添う

「沈黙」(遠藤周作)新潮文庫

師の棄教の真偽を確かめるべく
日本へと潜入した司祭ロドリゴ。
案内役キチジローの導きのもと、
ロドリゴは日本の
隠れキリシタン達と出会う。
やがてキチジローの密告により
ロドリゴは囚われの身となる。
そこで彼が見たものは…。

マーティン・スコセッシの映画化により
再び脚光を浴びた本作品。
何度目かの再読になりますが、
読むたびにいろいろなことを
考えさせられます。

ただ、本作品は私にとっては
ある意味難しすぎます。
キリスト教はおろか
自宅の仏壇を拝む習慣さえ
持たない私にとって、
本作品の問いかける
「日本人にとっての
キリスト教とは何か」など、
とうていわかろうはずがありません。

私が本作品を読むたびに思うのは、
人間の「弱さ」ということです。
それゆえいつも
キチジローに注目してしまうのです。
本作品中、
彼は弱い人間として描かれています。
人格者ロドリゴでさえ、
彼をユダに見立て、軽蔑しているのです。
教義に殉じていった
農民たちの姿と比較したとき
(比較しなくても)、
確かに彼の言動はお世辞にも
美しいとはいえないでしょう。

さらに考えます。
拷問の末に死んでいった
農民信徒たちは強かったのか?
そうとはいえません。
生が過酷な労働に終始するだけなら、
死への抵抗はかなり低くなるでしょう。

彼らとは違い、
キチジローは生きる才覚があるのです。
マカオからロドリゴたちを案内し
日本に帰還してすぐに信者を探して
引き合わせる社交性と
行動力を持っています。
そんな彼からすれば
死を恐れるのも当然です。

そしてキチジローは
教義を棄てたといえるのか?
いいえ、
棄てきれなかったというべきでしょう。
だからロドリゴが転んだあとも
彼は告悔を聞いてくれと
頼みに来るのです。

「この世にはなあ、
 弱か者と強か者のござります。
 俺のように生れつき弱か者は…」
「強い者も弱い者もないのだ。
 強い者より弱い者が
 苦しまなかったと
 誰が断言できよう」

作者遠藤の描いたものは
弱者に寄り添うことに気付いた
ロドリゴの姿であり、
描きたかったものは
弱者に常に寄り添っているであろう
イエスの存在なのではないかと
思う次第です。

日本文学の最高峰に位置する本作品、
中学校3年生に
是非とも薦めたい一冊です。

(2019.7.4)

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